平清盛ゆかりの地。神戸、京都、三重、広島へ。

高松神明神社(京都市中京区)

ここでは保元の乱で後白河天皇の本拠地となり、平清盛ら天皇方に組みした軍勢が集結したというゆかりの地、高松神明神社をします。

保元の乱で平清盛などの軍勢が集結した場所

高松神明神社高松神明神社は、現在の京都市中京区姉小路通にある神社です。平安初期にはすでに存在していたとされています。その後の平安後期、後白河天皇がこの地で即位したとされ、自らの御所(里内裏)として使用するようになります。そして保元の乱では天皇方の本拠地となりました。

この高松神明神社にはもう一つ、歴史好きの心をくすぐるものがあります。それは「真田幸村の知恵の地蔵尊」。関ヶ原の戦い後から大阪の陣までの間、幸村が蟄居させられていた紀州九度山の伽羅陀山に安置してあったものを拝領してきたもので、地蔵堂の台石をさすってから子供の頭をなでると知恵を授かると言われています。

平清盛と源義朝がこの時は味方同士

話を保元の乱に戻しましょう。そもそも保元の乱は、皇位継承問題や摂関家の内紛がきっかけとなり、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂。双方が武力衝突に至った政変です。

ここで興味深いのは、後の平治の乱では敵対することとなる平清盛と源義朝が、味方として後白河天皇方についていることです。加えて、平氏同士、源氏同士が敵味方に分かれているのも特徴で、とりわけ源義朝の父である源為義は、他ならぬ息子の義朝によって処刑されています。武家の世界というものはかくも厳しいものであったかと、改めて思い知らされます。

1156年7月10日、天皇方の高松殿には元々警備の任にあった源義朝・源義康に加え、清盛ほか源頼政、源重成、源季実、平信兼、平維繁などが集結。一方、崇徳上皇方の本拠である白河北殿には、藤原頼長を筆頭に平家弘、源為国、源為義、平忠正らが結集。弓の名手として知られ義朝の弟である源為朝も上皇方に属しました。

翌7月11日の未明、戦いは源義朝と清盛らの率いる騎馬隊が上皇方の白河北殿に夜討ちをかけて、戦いの火蓋が切られます。上皇方も源為朝が得意の弓で奮闘しますが、数に勝る天皇方は白河北殿に隣接する藤原家成邸に火を放ち、やがて白河北殿に延焼すると上皇方は総崩れとなり雌雄が決しました。

この戦いで天皇方が勝利したことにより、後白河天皇の側近である信西が政治の主導権を握ることになります。この信西による権力の急速な拡大が朝廷内に新たな対立を呼び、やがて平治の乱を招くことになるのです。

 
平清盛ゆかりの地~平家の栄華をたどる~