平清盛ゆかりの地。神戸、京都、三重、広島へ。

三条東殿跡(京都市中京区)

ここでは、平清盛が武家政権を確立するきっかけになった平治の乱ゆかりの地、三条東殿の跡地を紹介します。

三条東殿襲撃にはじまる平治の乱

三条東殿跡地平治の乱は、平清盛がその武力によって躍進し、その後の武家政権確立に至るターニングポイントになった出来事です。その口火を切った場所こそが、三条東殿の跡地になります。

三条東殿の跡地は、現在の京都市中京区姉小路、三條烏丸交差点の東北に位置する四方約120メートルに相当します。現地にある新風館前には石碑が遺されており、傍らにはその由来が解説されています。

ことの起こりは、1159年12月9日の夜、藤原信頼・源義朝の軍勢がこの三条東殿を襲撃したことによります。信頼らは後白河上皇とその姉の上西門院の身柄を確保し幽閉。その上で三条東殿に火を放ち、逃げまどう者には容赦なく矢を放ったとされています。

そもそも平治の乱は、後白河院政派と二条親政派の権力争いに加え、後白河の側近でありながら権勢を振るい両派から敵視されていた信西一門の三つ巴の争いに端を発したものです。そのいさかいに、武家である平家一門と藤原信頼・源義朝の軍勢がそれぞれの思惑をもって加担していった戦いということになります。

後白河天皇は保元の乱に勝利し、側近の信西に命じて荘園の改革を行いますが、この過程で鳥羽法皇の流れを汲む二条親政派が待ったをかけます。そもそも後白河の即位は暫定的なものであり、側近である信西も二条親政派の要求を無視できませんでした。

協議の結果、後白河天皇は二条親政派の推す守仁親王に位をゆずり、二条天皇として即位。ここに後白河院政派と二条親政派の対立が始まることになります。信西もまた、この件で後白河院政派の恨みを買いました。

後白河院政派と二条親政派は対立していましたが、信西一門の政治主導に対する反発という点では利害が一致しており、信西を倒す機会をうかがっていたことになります。

中立だった清盛も平治の乱の渦中へ

清盛はこの流れの中で中立の立場をとっていましたが、その軍事力はどの派閥から見ても無視できないものでした。そこで、清盛が熊野参詣に赴いた隙をついて、反信西派はクーデターを起こし、藤原信頼・源義朝の軍勢がその実行部隊を務めました。

クーデターの最大の標的である信西は襲撃を免れ逃走したものの、追手の激しさに自害。ここに当初の目的は達成されましたが、事態は思わぬ方向に進みます。

藤原信頼がクーデター成功の勢いを借り、内裏に二条天皇・後白河上皇を確保して政権を掌握してしまうのです。これは後白河院政派と二条親政派にとっても想定外でした。

一方、清盛は紀州熊野から京都・六波羅に戻り藤原信頼・源義朝との戦いに打ってでることを決意。藤原信頼は当初、清盛は自分の味方になると踏んでいたようで、判断の甘さを源義朝から咎められています。この後の顛末については「六波羅蜜寺(京都市東山区)」のページをご覧ください。

 
平清盛ゆかりの地~平家の栄華をたどる~