平清盛ゆかりの地。神戸、京都、三重、広島へ。

平清盛の性格について

政権を握っていた武士、平清盛の性格について調べてみました。

平清盛が悪人って本当?

平清盛は1118年(元永1)、伊勢産品(現・三重県津市)で生まれました。実母は、祇園女御、あるいはその妹と言われていますが、実際のところは分かっていません。実父は白河法皇ですがその後、平忠盛によって育てられました。また、幼い頃、清盛は夜泣きが酷かったそうです。それを聞いた白河法皇は「夜泣きすと ただもりたてよ 末の代に 清く盛ふる こともこそあれ」と歌いました。これがきっかけとなり、名付けられたのが「清盛」という名前だったのです。

その後、清盛は武士の子でありながら、初めて政権を握り、太政大臣にまで上りつめて平氏全盛の時代を確立しました。太政大臣は、最有力の皇位継承者です。それに加え、天皇の共同統治者と政務代行者にも位置付けられていた、と考えられています。つまり、清盛は摂政を兼ねた皇太子のような地位にあったのです。

清盛の性格は、平家の栄華と没落を描いた「平家物語」で描かれています。おごり高ぶる平家は滅びるべくして滅びた、というストーリー展開の中、清盛は意図的に悪人として描かれています。
しかし、近年の歴史の研究において「平家物語」の世界観が、必ずしも事実に繋がるものではない事が明らかになってきたのです。この物語が生まれた鎌倉時代は、平家を滅ぼした源氏が政権を握っていました。そのため、物語では平家が悪く描かれています。物語が長きに渡って人々に親しまれてきた、というのもあり、悪人のイメージが定着してしまった、という訳なのです。

本当はやさしい、平清盛の性格

「平家物語」による、平清盛が悪人というイメージは、現代でも根付いてしまっているようです。しかし、実際の清盛は、やさしい性格であったと言います。

清盛は、相手が召使いでもその家族や知り合いの前では、一人前の人物として扱っていました。また、海峡である「音戸の瀬戸」を開削する際は、人柱の代わりに一字一石の経石を海に沈めました。

また、平治の乱の後は、継母である池禅尼の願いを聞き入れて敵対した、源義朝の子供たち(頼朝、今若、乙若、牛若(後の義経))を伊豆へ流し、助命したのです。本来ならば、敵に値する男児は死刑が常識。後々、自分にキバを剥きかねないからです。
これには、源義朝の側室で3人の男児の母でもあった、常盤御前が深く関わっています。清盛の寵愛を受けていた常盤御前が3人の男児を助けるよう、清盛に泣きついたため、死刑の予定がひるがえされたのです。

これらのエピソードは、清盛が温厚で情け深く、人情味に溢れた人物であった事を伺わせます。しかし、この性格が災いして平家は、源頼朝の兄弟や後ろ盾となった、北条家に滅ぼされてしまうのです。
それ以来、戦乱の世では、敵方の子供やその他、親族は死刑になる事が多くなりました。

平清盛のカリスマ性と功績

政治力がある清盛は、多大なるカリスマ性を持った人物でした。その功績やエピソードをご紹介します。

■瀬戸内海航路を開拓

清盛は、父である忠盛と共に瀬戸内海の海賊を退治、その功績が認められて安芸守に任じられます。そして瀬戸内海の制海権を手に入れ、瀬戸内海航路の構築に力を注ぎました。内容としては、潮待ちの港である鞆・瀬戸田・馬島などの港湾を整備したり、大型船が九州から近畿まで瀬戸内海を往来できるようにした、と言われています。「音戸の瀬戸」を開削した際は、夕日を招き返し、1日で切り拓いたという伝説があるそうです。

■福原遷都

1180年(治承4)、清盛の強い意向で都を京から福原(現・神戸)に遷します。海外に開けた国家を作ろうと考え、日宋貿易で得た銅銭を流通させ、貨幣制度を築いたのです。この清盛の思想・政策は、変化や進歩の無い体制に挑戦するものでした。また清盛は、保元・平治の乱や海賊退治などで類まれな軍事力を見せつけたのです。天皇家と関係を深める婚姻政策も進め、策略家としての才能を発揮しました。

■日宋貿易

1158年(保元3)、清盛は太宰府の次官(実質的長官)である太宰大弐に任ぜられます。その時、中国の王朝の一つ、宋の商船が運んでくる唐物に強い興味を抱きました。清盛は、貿易こそが国を豊かにする、と考えていたのです。その後、清盛は宋人を太宰府から瀬戸内海へ招きました。清盛の行動は、当時の貴族達から驚異の目で見られましたが、清盛は航路整備のため、大輪田泊などの港を整え、着々と交易を拡大していきました。
宋との貿易は、平安時代中期から鎌倉時代中期にかけて行われたそうです。銅銭は、日本において貨幣の中心的な役割を果たしました。

 
平清盛ゆかりの地~平家の栄華をたどる~