平清盛ゆかりの地。神戸、京都、三重、広島へ。

八坂神社(京都市東山区)

ここでは平清盛に関する2つのエピソードが残っているゆかりの地、八坂神社を訪ねます。

清盛とも縁深い京都の観光スポット八坂神社

八坂神社八坂神社は、数ある京都の神社のなかでも知名度が高く、多くの観光客で賑わうスポットです。繁華街として知られる四条河原の東に位置し、こちらも観光スポットである円山公園の一角を占めています。お正月は初詣で賑わい、また一年を通して四季折々の花が美しく咲く場所としても知られています。

ちなみに、八坂神社と呼ばれるようになったのは慶応4年(1868年)の神仏分離令によるもので、それ以前は祇園社(現在でも通称として祇園さんと呼ばれます)でした。加えて日本3大祭りのひとつ祇園祭も、この神社の祭りが始まりとされています。

前置きが長くなりましたが、この八坂神社には、清盛とその父忠盛に関して2つのエピソードが伝わっています。

清盛生誕の一説、忠盛と白河上皇と祇園女御

一つは、清盛の生誕に関わるものです。清盛の父である平忠盛は清盛の生前、時の権力者である白河上皇の護衛を勤めていました。当時、白河上皇は寵愛する女性、祇園女御のところへ忠盛を共に通っていました。

ある晩、白河上皇は化け物の姿を目にして、忠盛に討ち取るよう命じます。ですが忠盛は、それが灯明をともす老僧であることを察しました。この忠盛の冷静沈着さに白河上皇は感心し、寵愛する祇園女御を忠盛に下賜したそうです。

この時点で祇園女御はすでに身ごもっており、後に男子誕生。清盛と名づけられたというものです。いわゆる平清盛の落胤説です(なお、清盛の母は祇園女御の妹という説もあります)。

このエピソードに出てくる、老僧が火を灯そうとしていた灯籠が、現在も八坂神社に残る「忠盛灯篭」だとされています。

武士の力を示すきっかけとなった「祇園乱闘事件」

もうひとつ、八坂神社と忠盛・清盛親子に関するエピソードとしては「祇園闘乱事件」があります。ことの起こりは久安3年(1147年)6月15日、宿願の成就祈願に訪れた清盛の郎党が、祇園社の神人と小競り合いとなり、多くの負傷者が出ました。

この事件を知った祇園社の本寺である比叡山・延暦寺は、平忠盛・清盛を配流(いわゆる島流し)させるよう訴え、親子は窮地に立たされます。

しかし、清盛らの武力をあてにしていた鳥羽法皇の庇護により、今でいうところの罰金刑に落ち着くことになりました。このことは鳥羽法皇の平家に対する信任ぶりを周囲に誇示することになり、また鳥羽法皇にとっても、朝廷への発言権を強めていた延暦寺の要求を事実上拒否することに成功した事例となりました。

このことが、武士の持つ武力の有効性・重要性を世間に知らしめる転機となり、ひいては後の平家武家政権へのきっかけとなったとされています。

 
平清盛ゆかりの地~平家の栄華をたどる~