平清盛ゆかりの地。神戸、京都、三重、広島へ。

絵島(淡路市岩屋字)

平清盛と松王丸にゆかりの深い、淡路市岩屋字の「絵島」におけるエピソードや特徴などについて紹介しています。

清盛と松王丸に関するエピソード

絵島の供養塔の画像兵庫県の本州から明石海峡大橋を渡った所に、淡路島という島があります。橋を渡ってすぐの所には「道の駅あわじ」があり、海沿いを左に22分ほど歩くと平清盛とゆかりの深い観光地「絵島」に着きます。
絵島は、清盛がそば仕え(小姓)の中の一人「松王丸」を祀った、有名な場所です。松王丸は、讃岐国の武将の子で17歳の少年でした。松王丸は、清盛から大変可愛がられていたと言います。

ここでは、松王丸の供養塔が建てられた経緯や、それに関わった清盛のエピソードについて辿ってみたいと思います。



平氏が栄えていた時、清盛は福原に遷都します。中国の宋と貿易をするため、大きな港を必要としていたのです。そこで清盛は、現在の神戸市兵庫区に「大輪田泊(おおわだのとまり)」という港を築造する事に。
しかし、六甲の山並みと和田岬の側を吹き抜ける、南東からの大風や波が船の出入りを阻んでいたのです。清盛は、大輪田泊をより安全な港にしようと港の沖に島を築き、防波堤にしようと考えました。

まずは、会下山(えげやま)の南にあった塩槌山(しおづちやま)を切り崩し、土砂を海へ運ぶことになったのです。しかし、人力での作業のためスムーズにはいきません。深い海に土砂を埋め、あと少しで終わるというところで毎回、潮に流されてしまいます。
清盛は、どうすれば工事が上手くいくのか、陰陽博士に占わせてみることにしました。その答えは「島を築くには、海中の竜神の怒りを鎮める必要がある。30人の人柱を海に沈め、竜神に供えると良い」いうもの。

清盛はすぐに行動に移り、生田に関所を設けて人柱のための旅人を捕らえました。この出来事に深く関わったのが「松王丸」です。この少年は、捕らえられた人々が悲しむ姿を見かねて「人柱などというむごい事はおやめ下さい。私が30人の身代わりになりましょう」、と清盛に言ったのです。

清盛は初め、松王丸の申し出に反対。しかし、松王丸が何度も訴えたため、申し出が聞き入れられました。松王丸は、石の櫃(ひつ)に入れられ、白馬の背に乗せられ港へ運ばれたのです。千人の僧侶の読経する声の中で松王丸は、海へ沈んでいきました…。
人々は涙し、お経を書き写した石を海へ投げ入れたのです。

その後、波を防ぐための島「築島(つきしま)」は完成。築島は、お経を沢山しずめたので「経ヶ島(きょうがしま)」とも呼ばれています。正確な場所は未だに分かっていないのだとか。
清盛は、築島の完成を祝いました。その時、西にある高取山の山頂から紫色の雲が島の上をおおいます。美しい音楽が鳴り響き、沢山の仏と共に松王丸が現れました。松王丸は、如意輪観音の姿に変わり、金色の光を放ったと言います。

清盛は、松王丸を弔うため、この地に経島山来迎寺(きょうとうざんらいこうじ)という寺を建てました。境内には、今でも松王丸の供養塔が残っています。

また、清盛は以前、松王丸と絵島の美しさについてよく語り合っていた事を思い出しました。その際、清盛が港の見える絵島の頂上に人柱となった松王丸を祀った、と言われています。

清盛が愛した絵島

絵島の画像岩屋漁港にある絵島は「おのころ島」とも呼ばれています。古事記・日本書紀などの国生み神話に登場するおのころ島は、日本最初の国土と言われているのです。おのころ島の場所に関しては諸説あり、絵島もその1つとされています。おのころ島伝説に関連している場所は、淡路島内だけでも多々あり、未だ解明されていません。

絵島は、約2千万年前の砂岩層が露出した小島。地質学的に珍しい形をしており、岩肌の侵食模様が特徴的です。絵島は、平家物語の「月見」の巻(巻五)にも登場する有名な場所なのです。
また、古来より和歌を詠む名所として名高い場所でした。月見の巻には「1180年、平家が福原に遷都。その際、栄華の夢に耽った人々は、絵島の月を見ようとして須磨から明石海峡を渡り、絵島の月を愛でながら歌会を催していた」という記述が残されています。
また、西行法師は「山家集」の中で「千鳥なく 絵島の浦に すむ月を 波にうつして 見るこよいかな」と詠っています。

平清盛と松王丸が美しさに魅入られた、絵島。その美しさに多くの人々が魅了され、一度は行って見てみたい、と思ったそうです。

 
平清盛ゆかりの地~平家の栄華をたどる~